取材08 “石都” 岡崎 〜 石屋渡世から、長七たたきまで。
2005年04月29日
岡崎石工団地へ。もとは旧城下、すなわち岡崎中心部の花崗町、通称「石屋町」にずらりと軒を連ねていた石屋さんのうち進取の気質にあふれた68軒が、1962年に郊外の田んぼのどまんなかに引っ越したのがはじまり。

「石屋町といえば泣く子も黙った」。石屋さんは、マスクもろくにせず毎日のように石の粉塵を吸い込み、「珪肺」(けいはい)という職業病にかかる人が多かった。珪肺は治らない。仲間たちの間では、45まで生きればいい、50を過ぎて生きていれば腕が悪いから仕事がなかったのだと陰口をたたかれるほど、石屋は短命だった。だからみな気性が荒く、入れ墨をして夜通し酒をあおるといった風で、一本気だが気が短く、人相の悪い人ばかりで怖がられた。弟子入りした少年たちも兄弟子から定板でなぐられた。通りを歩けば右からも左からもこっぱ(石片)が飛び交い、粉塵が舞う。危なくて歩けないし、とても洗濯物など干せない。トラックが止まれば積み降ろしの間は通行を止めてしまう。
泣く子がいても、「石屋に入れるぞ」といえば泣きやんだという話もうなづける。だって怖いよ。しかし、そういう状態から脱却し、機械化したり工場規模を拡大するために、旧城下の職住近接の町から、郊外へと転出する。いち早い体質改善が、その後の飛ぶ鳥を落とす勢いの成長の基礎となった。
石屋はいまも尺寸。1尺立方を「1才」と言い、積算の単位になる。もちろん石そのものの質や、職人や産地によっても石製品の値は大きく変わる。香川県庵治・牟礼、茨城県真壁、そして愛知県岡崎の3つが三大産地。そもそも“石都”岡崎のはじまりは、岡崎築城に際し和泉国(大阪)より招聘された石組の専門集団が、その後も定着して、石垣や日用製品(臼など)をつくるようになったことに遡るという。三大産地のなかで規模では最も小さな岡崎が、技術力では長くトップを走り続けている。岡崎で修行をすれば箔が付く。今も、岡崎には全国から石屋の技術を身につけたいという人がやってくる。庵治牟礼や真壁も、岡崎で修行した人が指導者なのだとか。
午後は、石の公園団地へ。こちらは上記団地に遅れて、やはり石屋町から転出したもうひとつの団地。ここでたまたま話をうかがったYさんは、中学を出て、15才の時に列車に乗せられ、九州の宮崎から岡崎まで来てそのまま定着したという職人さん。高度成長の頃は、岡崎では紡績業が盛んで、雇用対策協議会なる組織が企業の求めに応じて九州など各地方の職安をまわって求人した。それはほとんど「人買い」のような有様で、右も左も分からない少女たちが無数に岡崎にも運ばれてきたという。Yさんは手でものをつくる仕事をしたいと地元宮崎の職安に相談したところ、岡崎を薦められた。農業から製造業への転換を推し進める国策を背景に、翻弄される十代の少年少女たちの姿を想像するとせつない。
農村から都市への人口移動について、はじめて肉体的な感覚をともなって想像する。一方、石屋さんが旧城下の門前から何もない郊外へと移っていったように、製造業も商業もしだいに都市の中心部では機能しなくなる。都市は、恐るべき求心力をもって人やモノを集めるが、同時に、都市それ自身を広く、薄く、拡散させる反発力をもあわせもつ。2つの力が同時に、しかも強力に働いてできたのが日本の現代都市だ。真面目な話、今日は都市研究のまたとない素材にふれた。
夕方、岩津天満宮の宮司さんにお会いする。独自の人造石を発明し、宇品港(広島)築港をはじめ明治期の国家的土木事業に携わった服部長七の曾孫にあたる方だ。「長七たたき」と呼ばれる人造石の技術は、天然の土に、熱を加えずに、ある種の化学反応で固めるもので、コンクリート普及以前の過渡期に活躍したのだが、たんなる過渡的存在にとどまらず、むしろ今日的な視点からINAXの技術者に再発見され、アンコール遺跡の修復に採用されたり、産業化遺産の観点でも注目されている。
愛知県碧南出身の長七は、東京日本橋に本店を構えて色々な事業に手を出しているうちに失敗し、全財産を失ってしまう。晩年は岩津天満宮の奉仕に専心し、彼の子孫が天満宮の宮司を務めることになる。現宮司は1955年の中根仙吉著『服部長七伝』を復刻(岩津天満宮刊、1996)されるなど、長七を生かすことに意を用いておられる。貴重なお仕事だ。1部頂戴して失礼した。ありがとうございます。
取材終了後は、大学に戻り、荻野さんとメンバーとで新年度の決意を再確認。というか、朝まで飲んだ。夜はあっという間に過ぎたが、長七が再発見されるのに一世紀かかった。石が土になるのには百万年かかるという。

