豊川進雄神社の大祭から
2005年07月20日
豊川市の豊川元町という、旧市街でも最も小さな町内に2年半前に仲間入りさせていただき、祭りを内側で経験するのは今年で2回目となった。少しずつ色々なことを教えてもらったり、今年は連区(氏子=22町内の全体)のお役もあって、去年よりずいぶん事情が分かってきた。
僕なりに発見もあったので、長くなるけれど書いておきたい。
(← 写真は「大筒」。人間が持つのが「手筒」だが、これは特別に大きく、台座に据えられる。青年の勇壮な手筒奉納が終わった後、祭りのクライマックスを飾る。縄ではなく竹の綱が巻かれている。)
面白いと思ったのは、誰も、祭りの全貌を把握している人はいないが、にもかかわらず巨大な複合体としての祭りの全体はちゃんと動いているということだ。最近では郷土史家とか連区の中心人物が祭りの歴史やプログラムを記録したりして、全体の把握は進んでいるのかもしれないが、中心人物は、中心にいるからこそ末端を、あるいは現場を実は知らない。末端の町内の人たちは、逆に全体の運営を知らない。連区、各町内、青年、中老、それぞれがそれなりに複雑なプログラムを持っており、それぞれの集団の内部でも役割を輪番で交替しながら、前年の例を踏襲しつつなすべきことをなす。それらが複合して大きな祭りが動いている。どうということはないが、しかし驚異的なことだと思った。
次に驚いたのは、青年(青年団)の激烈さだ。青年というのは年齢で20〜30までの人たちだが、この年齢層の人でも皆が参加しているわけではない。青年を卒業すると40歳までは中老と呼ばれる。彼らが祭りの主役となる。
都市祭典にはそれなりに大きな予算が必要だ。豊川の場合、たとえば手筒をはじめとする花火の費用を、町内で出す分は町内でまかなうが、主役となる青年・中老の分などは寄付による。大口の寄付をする人たちは宴席をもうけ、そこに青年も出て飲みまくる。祭りの1ヶ月前から連日酒をあおる。昔はどの町にも芸者がいたが、豊川では僕の住んでいる元町が置屋街で、昭和30年代までは7軒もあったといい、芸者さんたちはすぐ近くの料亭や料理旅館などが集まった地区に呼ばれて宴席を盛り上げた。町内のYさん(77歳)は、若い頃は芸者の「彼女」がいて、祭りの前の1ヶ月間は彼女の置屋にほとんど寝泊まりして昼間から酒をあおり、夜になると料亭の宴席に出たという。青年の妻は、「お祭り未亡人」と言われた。
芸者に払う料金は「線香代」と言った。線香というのは時間の比喩だ。線香代や飲み代も、自分の持ち出し分があってバカにならない。1ヶ月で10〜20万円も使う。それをツケておいて来年払う。こうして中老を卒業するまでの20年間で、数百万円をはたくことになる。もちろん今はもう芸者の生き残りといえば60〜70代。最近ではピンク・コンパニオンを呼ぶのだという。
新入りなどは、何か先輩の気に入らないことを言うたびに一升瓶をくわえさせられ、連日吐き戻す。そうしてほとんど身も心も酒漬けになって、最後に何十キロという手筒を抱え上げて火の粉を浴びるのである。太く長い手筒をあげている姿はいかにも精悍でカッコいいが、その背後にはすさまじい1ヶ月がある。
手筒についてもいろいろキツイ話がある。
祭りは3日間にわたる。今では金・土・日で行われるが、金曜日の夜は各町内が手筒とからくり花火を出し、青年が大きな手筒を出すのは土曜日で、この日には県の無形文化財である綱火(現在は境内、かつては市街地に張られた100mほどの綱をつたって、花火がものすごいスピードで走る)もある。町内で出す手筒は、今では(火薬の重量で)1斤ないし2斤までという制限があり、僕も含めてほとんどの人は1斤なのだが、青年は5斤(人によっては8斤)というような大きなものを出す。
手筒は竹に縄を巻いて、中に何層かに火薬を詰めるのだが、縄を巻くのはシリンダー内部の圧力に対して破裂を防ぐため。火薬は最後に「ハネコ」と呼ばれるものを詰め、花火の最後にこれが「ドン」と地響きのような大きく重い音を立ててフィニッシュとなる。ハネコは、花火の終わりを印象づけるだけでなく、中に残った火薬を吹き飛ばしてしまう機能がある。今でも豊川では竹の切り出しから、縄巻き、火薬詰めまでを自分たちで行う(一部では火薬は業者に詰めてもらっているが)。
制作してから乾燥がつづくなど、条件によっては危険な状態になる。火薬の燃え方が悪いと、縄をちぎって破裂する。ある年などは、大きな手筒が立て続けに破裂し、屈強な若者たちが次々に2〜3mも飛んだのだという。こういうときは消防と警察が止めに入り、祭りを止めるわけにはいかない青年たちとの小競り合いにもなり、境内は騒然となる。破裂の仕方によっては足を大火傷するが、ある人は肉がただれ落ち、骨が露出したが、それがバレると祭りが止められてしまうので、自力で病院まで歩き、病院に辿り着いた瞬間に気絶したのだという。こういう武勇伝(?)はきっと無数にあるのだろう。
手筒にも罰ゲームがある。火薬の量や竹のサイズが同じでも、縄を3重・4重に巻くだけでずいぶん重くなる。青年の手筒は、地面に寝かせて点火し、花火が勢いよく吹き出してからおもむろに筒を抱え、ぐいと持ち上げる。筒が重いと、ただでさえ酒漬けになってヘロヘロなのに、なかなか思うように持ち上がらない。持ち上がらないと格好が悪いし、ヤジが飛ぶ。ようやく持ち上がっても高さが十分でないと噴射口が顔の下あたりに来てしまい、吹き出した花火が頬を焼き溶かしていくのだという。マジですか!
・・・というわけで、青年のなり手はずいぶん減ってきた。20年間の青年・中老を終えて、祭りの端っこに追いやられたようになって放心状態になってしまう人たちも、自分の息子に同じことをやらせるのは忍びないのだそうだ(まあ、そうだろうなあ)。当然ながら、祭りを持続させるのなら習慣を変えなければならない。たぶん、これまでだって小さな、あるいは大きな変化を経験してきたはずだ。問題は、そのプロセスのなかに積み重なりながら連なるものがあって、容易には過去と切り離されないということだろう。
それを支えているのものが2つあるのではないかと実感した。ひとつは継承のあり方。言うなれば、正しい「原型」の現実化でなく、直近(つまり前年)の実例の復元再構成という「隣接」の原理である。もうひとつは緩やかな統合体としての祭りのあり方。全体は大きな破綻なくちゃんと動いているように見えるが、実は誰も全貌を知らない。だから全体を一挙につくり変えてしまう契機そのものが成立しにくい。アノニマスなものの複合体が、したたかな持続性をもつ理由の一端が、少し分かったような気がした。
僕、石黒

